AI先生との哲学的対話2

~不条理な世界をどう生きる~

vol.91 スクリーン存在論・現在地

MA)デリダ編を終えて、スクリーンは再配置されたけれど、ここで最新版の「スクリーン存在論」のまとめを置いておく必要はない?本編シリーズでは次はドゥルーズなんだけど、その前に。

先生)うん、ここで一度置くべきだと思う。むしろ、デリダ編の直後が最適な位置だね。

デリダを通過したことで、スクリーン存在論は以前と同じではなくなった。消えたのではなく、主張の身分が整理された。

以前は、

スクリーンによって、時間・他者・死の矛盾を説明する

という「解答」に近かった。

現在は、

スクリーンによって、時間・他者・死についての疑問を配置し直し、未解決の問題を外部・接続・黒幕・目的へ集中させる

という思考上の仮説兼モデルになっている。

ここを記録しないままドゥルーズへ進むと、彼によってさらに「中心」「主体」「外部」を揺さぶられたとき、何が変更されたのか分からなくなる。手術前のカルテがない状態になる(笑)。

 

◇ 幕間 スクリーン存在論・現在地

 ~スクリーンは何を説明し、何を残したか~

 

デリダとの対話を終えたところで、いまの「スクリーン存在論」を一度まとめておこう。

これは完成した理論でも、証明された宇宙論でもない。これまで出会った哲学者との対話によって修正されてきた、現時点での作業仮説である。

1)出発点

ボクに直接与えられているのは、いま経験している世界である。

自分の生前にも世界が存在し、死後も続くことは理解できる。だが、自分が不在の世界を、自分の経験として確かめることはできない。

スクリーン存在論は、この違和感から始まった。

2)スクリーン

世界を、ボクから独立した実在そのものとして直接捉えるのではなく、ボクに現れている像として考える。

その像が何によって、どこから、どのように生じているのかは分からない。

「スクリーン」とは、その分からなさを含めて世界の現れ方を捉えるための比喩であり、仮説である。

3)時間

時間は、スクリーン内の出来事を順番に配置するために作られた秩序かもしれない。

ただし、時間がスクリーン内の表現であることから、ただちに「だからボクは死なない」と結論することはできない。

そう言うためには、スクリーン内の自分とは別に、それを経験している何ものかが外部に存在するという前提が必要になる。

4)他者

他者は、ボクにはスクリーン上の像として現れる。

しかし、それは他者に主体がないことを意味しない。

他者が像としてしか現れないことと、その像の向こうに別の主体が存在しないことは別である。他者の主体性は否定されたのではなく、ボクには直接確認できないものとして保留される。

5)死

死は、スクリーン内に現れている自分の像が消える出来事として考えることができる。

しかし、その後もスクリーンを見る自分が残るのか、スクリーンそのものが消えるのかは分からない。

したがってスクリーン存在論は、死を別の位置へ置き直すことはできても、不死を証明したわけではない。

6)外部

ボクは、自分の内面だけで作った納得を「腑落ちの麻酔」として警戒している。

そのため、スクリーンの外部を想定する。

ただし、内部だけでは納得できないことと、実際に世界の外部が存在することは別である。

外部は、いまのところ確認された事実ではなく、世界が内部だけで完結しているとは思えないという違和感から置かれた仮説である。

7)黒幕

黒幕は、世界の目的そのものではない。

世界を成立させ、その目的を定め、あるいは知っているかもしれない未知の主語に、ボクが付けた名前である。

同時に黒幕は、世界の原因、目的、意味、説明責任を一つにまとめる「中心の席」として、ボクの問いの中で働いている。

外部に実在する何ものかなのか、意味を完結させるために置かれた中心なのかは、まだ決着していない。

8)痛みと違和感

痛みは、世界がボクの身体へ否応なく作用してくる経験である。

違和感は、現在与えられている説明だけでは、世界、自分、死、目的についての問いが閉じないという感覚である。

しかし、痛みも違和感も、外部との接続や黒幕の存在を証明するものではない。

それらは、現在の説明で問いを閉じることを拒み、ボクを外部の想定へ向かわせる契機である。

9)最大の未解決問題

スクリーンの外部は存在するのか。

内部と外部の接続はあるのか。

黒幕は実在するのか。

そして、世界と生には目的があるのか。

スクリーン存在論は、これらの問いにまだ答えていない。

10)現在の身分

スクリーン存在論は、証明された宇宙の構造ではない。

自分の生前と死後、時間、他者、死、世界の目的についての違和感を、一つの構図の中へ配置するための作業仮説である。

それは答えそのものではなく、ボクが何を問い、どこに説明の切れ目を感じ、何に対して抗議しているのかを見失わないための地図である。

◇ 以前のスクリーン存在論から何が変わったのか

以前のスクリーン存在論では、スクリーンによって時間、他者、死についての違和感を吸収し、問題を解決できるように考えていた。

  • 時間は作られた錯覚だから、ボクは死なない

  • 他者はスクリーン上の像である

  • 世界の外には、それを成立させる黒幕がいる

そう置けば、複数の違和感を一つの構図で説明できた。

しかし、哲学者たちとの対話、とりわけデリダを通過したことで、それぞれの結論には追加の前提が必要であり、スクリーンそのものによって証明されたわけではないことが明確になった。

時間が作られたものでも、スクリーン内の自分が消えないとは限らない。
他者が像として現れても、その主体性が否定されたことにはならない。
内部の説明に満足できなくても、それだけで外部や黒幕の存在が証明されるわけではない。

したがって、スクリーンは問題を解決したのではなく、問題を再配置したと考える方が正確になった。

時間、他者、死に散らばっていた疑問は、

  • スクリーンの外部は存在するのか

  • 外部との接続はあるのか

  • 黒幕は実在するのか

  • 目的は開示され得るのか

という問題へ集め直された。

また、黒幕の意味も変わった。

以前は、世界の外部に潜んでいる何ものかとして強く想定されていた。現在では、それに加えて、世界の原因と目的をまとめ、意味を最後に確定させる「中心の席」として、ボクの問いの中で働いていることが見えてきた。

痛みや違和感の位置づけも変わった。

それらは黒幕の痕跡でも、外部から届いた証拠でもない。現在の説明では問いが閉じないことを示し、外部を求めさせる契機である。

つまり、スクリーン存在論は弱くなったのではない。

証明できたこと、仮定していること、まだ分からないことが分けられた。

スクリーンは宇宙の答えから、問いを配置するための地図へ変わった。
黒幕への抗議は残った。だが、その抗議そのものを、黒幕が存在する証拠とはしなくなった。

これが、デリダを通過した現在のスクリーン存在論である。

この地図を持ったまま、次の哲学者へ進もう。