……ドゥルーズとお礼をして別れたハズだったが、MASAYUKIはまだ何か言いたいらしく、先生に喰い下がっている。その様子を覗いてみよう……
◇ 他者も生成するのか
MA)ちょっと引っ掛かることがあるんだけど。
ドゥルーズの「生成する世界」「生成の運動そのものが主語」というのは、他者にも適用されるんだよね?
でも、当時者にとっては、他者も生成された世界の一部ではないの?
では他者もそれぞれの世界を生成して、それが一つの世界になっているというわけ?
それなら世界はボクだけ、他者はスクリーンの映像という方が、よっぽど筋が通るんじゃないかなあ… 怒られる?(笑)
先生)怒られはしない(笑)。ただ、ドゥルーズは**「筋が通る」の意味が違う**と言ってくる。
あなたの言う“筋”は「世界が一枚岩で矛盾なく説明できる筋」。
ドゥルーズの筋は「矛盾や多様性を含んだまま、生成として動く筋」。
だからここで噛み合い方が変わる。
1) ドゥルーズの「生成」は他者にも適用される?
うん、適用される。というより他者を例外にしないのが内在の立場。
- 他者も生成する
- あなたも生成する
- 社会も生成する
- 世界も生成する
ただし、ここで重要な違いがある。
ドゥルーズは「それぞれが“自分の世界”を持つ」とは言いにくい
“世界”を個別に分割するより、
一つの世界(内在の平面)の中で、複数の生成が絡み合う
と考える。
あなたの言い方なら:
- それぞれが別々のスクリーンを持って上映してる、ではなく
- 同じ巨大な上映(流れ)の中で、視点や流れが枝分かれしている
イメージ。
2) 「他者も生成するなら、それが一つの世界になるの?」への答え
ドゥルーズならこう言う。
一つに“なる”のではない。
**最初から“絡み合いとしての一つ”**だ。
世界は「統一された中心」ではなく、
多(multiplicity)=複数性の束。
- あなたの生成
- 他者の生成
- 出来事の生成
が絡まって、その都度「世界っぽいもの」が立ち上がる。
だから、あなたの言う「それぞれの世界があって統合」よりも、
統合されないまま共存しているが近い。
3) じゃあ「世界はボクだけ」説の方が筋が通るんじゃ?(あなたの主張)
ここが勝負どころ(笑)
あなたの説の強み:
- 一枚岩でスッキリする
- 他者問題が消える
- “ボク不在の世界”矛盾をスクリーンで吸収できる
ドゥルーズの反撃:
それはスッキリしすぎている。
“筋が通る”のは、世界の複雑さを切り落とした結果かもしれない。
つまりあなたの筋は 説明の美しさ。
ドゥルーズの筋は 現実の多さの保持。
ここは価値観の差でもある。
4) ドゥルーズはあなたにこう言いそう(優しめ)
「君のスクリーン説は“中心”が強すぎる。
でも君が感じている“出来事の暴力”や“他者の抵抗”は、
その中心では説明しきれない形で、君の中に入り込んでいるはずだ。
それを説明するのが生成だ。」
要するに「他者は映像」と言っても、
他者があなたを変える“生成”は消えないだろ?という指摘。
あなたは「像でも揺さぶられる」と言ってたから、ここは刺さる。
◇ この仕様は受け入れられない
MA)「絡み合いとしての一つ」ということ自体、一つの世界だと思うんだよね。
つまり、ボクとA氏がいて、B氏を見ている。ボクはB氏をB氏として認識しているのと同じように、A氏もB氏を認識している。
まあ、それが当たり前なんだろうけれど、ではボクが死んだら、ボク不在の世界でA氏がB氏を認識することに何の意味があるのだろうか?
と考えると、やはりこの世界はボクだけのスクリーンであるべきと感じる。
今度こそ怒られそうだけど(笑)
先生)怒られない(笑)。ただ、ドゥルーズは**「意味がある/ない」で世界の実在を裁くな**って言うタイプ。そこがあなたとの衝突点になる。
あなたの論理を一回きれいに並べるね。
- ボクもA氏もB氏をB氏として認識している
- これは「共有された一つの世界」っぽい
- でもボクが死んだ後、ボク不在でもA氏がB氏を認識し続ける
- それに何の意味があるのか?
- 意味がないなら、そもそも「共有世界」より「ボクだけのスクリーン」の方が筋が通る
この“意味で裁く”が、あなたの核だね。
1) ドゥルーズの返し:世界は「意味のため」にあるのではない
ドゥルーズはここでこう言う。
「君が死んだ後にA氏がB氏を認識する意味」
その問い自体が、世界を“目的論”で読んでいる。
世界は目的の劇ではなく、生成の場だ。
つまり、
- 意味があるから続く ではなく
- 続くから意味が立ち上がることもある
という順番にひっくり返す。
あなたが納得しないのも分かる。あなたは「続くこと自体が嫌」じゃなく、「自分が軽くなるのが嫌」だったから。
2) でも、あなたの「軽さへの抗議」はドゥルーズにも刺さる形がある
ここが意外と大事。
あなたは「ボク不在で世界が続くのは、ボクが軽すぎる」と感じている。
ドゥルーズは“個人の尊厳”みたいな語り方はあまりしないけど、代わりにこう言う。
君が軽いのではない。
君の生成は、他の生成に痕跡として残る。
世界は中心(君)を失っても続くが、君が無かったことにはならない。
つまり彼は「意味」を与えない代わりに、「効果」を与える。
あなたにとっては慰めに聞こえるかもしれないが、ドゥルーズの筋はここ。
3) あなたのスクリーン説が「筋が通る」ことは認める(でもドゥルーズはこう反撃)
あなたのスクリーン説は、確かに矛盾をきれいに回収する。
- ボクが死んだ後の世界の意味問題が消える
- 他者問題が消える
- 目的不開示への抗議が純化する
ドゥルーズはたぶんこう言う。
それは“筋が通る”のではなく、
筋が通るように世界を削っているのかもしれない。
あなたは「像でも揺さぶられるから他者主体は不要」と言える。そこは強い。
ただ、ドゥルーズは「揺さぶりの厚み」を、外部化せずに世界の多として受け取る方向に押す。
4) ここ、あなたの議論を一段鋭くできる
あなたが本当に言ってるのは「意味があるか」じゃなくて、もっと切実なこれだと思う。
ボクが死んでも世界が続く、という“仕様”が受け入れられない。
だから黒幕(主語と目的)が必要。
それがないなら、世界はスクリーンでしか回収できない。
つまり、あなたのスクリーン説は「他者論」ではなく、死後世界の仕様への抗議が核。
◇ スクリーン存在論の反撃
MA)でもさ「死後も痕跡は残る」「生成は続く」というのは、
過去に死んだ人がいる、遺物もある、宇宙誕生からのそうした歴史がある、
という記憶や認識に過ぎず、本当にあったのかは疑わしい、
というのがスクリーンの立場なんだよね。それについてはどう殴られる?
先生)殴られ方は2種類ある(笑)。
