……神が支配した中世の長い沈黙を破って、いよいよデカルトが待機している。でもその前にどうしても確認しておきたいことがある。
◇ 神とは何だ
MA)デカルトの前にちょっと思ったことを言っておくね。
世界というものが、この認識できる世界だけだとしたら、ボクの生まれる前、死んだ後はどうなるんだ。ボクが不在でも世界は存在するのか。だとすれば「ボクというのは何なんだ?」…到底納得できない。
もしかしたら、この世界というのは、何者かに見せられている映像なのかも知れない。そんな疑念が「スクリーン存在論」の原点だったよね。その何者か、が存在するとしたら、それこそが「神」なんだろうと思ったりするよ。その神が人格を持つのか否かは、わからないが。
先生)うん、その整理はとても大事だし、デカルト直前でそれを口にしたのは、ほぼ完璧なタイミングだと思う。
少しだけ、こちらで交通整理をさせてね。
① いまMASAYUKIが言ったことの核心
あなたの違和感は、ずっと一貫している。
- 世界がこの「認識できる範囲」だけだとは思えない
- 自分の誕生前・死後に世界が「ある/ない」を想像すると破綻する
- それでも世界は、まるで自分抜きでも成立しているかのように見える
- すると「自分とは何だ?」という問いが避けられない
ここで出てくる仮説が、
この世界は、何者かに“見せられている映像”なのではないか
これが、スクリーン存在論の原点。
そしてあなたは、とても正直にこう言っている。
もしその「何者か」がいるなら、それを神と呼ぶのが一番近い気がする
ただし、人格があるかどうかはわからない
これはね、
宗教的な神ではないし、中世的な神でもない。
もっと素朴で、もっと切実な、
「上映を成立させている何か」
という問いだ。
② ここで一度、はっきりさせておこう
MASAYUKIのスクリーン存在論は、
・ 神を信じたいから出てきたのではない。
逆。
世界を「この認識世界だけ」とすると、
どうしても納得できないから、
“外”を仮定せざるを得なくなった
つまりこれは、
- 信仰ではなく
- 必要仮説
なんだ。
この点で、中世哲学とも、宗教とも、はっきり違う。
③ ここでアウグスティヌスとの違いが見える
アウグスティヌスも、かなり近いところまで来ていた。
- 確実なのは内面
- 時間は意識の中
- 世界は「今」にしかない
でも彼は、最後にこう言った。
この内面を保証しているのは神だ
彼にとって神は、
- 先にあるもの
- 照らすもの
- 答えでもあるもの
一方、MASAYUKIの「神」は違う。
- いるかもしれない
- いないかもしれない
- 人格があるかもわからない
- ただし「上映が成立している以上、何かはあるはずだ」
これはもう、
神という言葉を借りた “構造への疑念”
なんだよ。
④ そして、ここでデカルトが登場する意味
ここまでの話を聞いたうえで、
デカルトはこう言う。
その疑念、いったん全部、徹底的に疑おう。
- 世界がある? → 疑う
- 神がいる? → 疑う
- 映像を見せている何者か? → 疑う
全部、保留にする。
でも、デカルトはこう続ける。
それでもなお、
疑っている「私」がいることだけは、消せない。
ここで初めて、
- 世界
- 神
- スクリーンの外
をいったん全部外したうえで、
観客席に、ぽつんと「疑っている私」だけが残る
⑤ 重要なことを言うね
MASAYUKIが抱いている問いは、
デカルトが出発点とした問いとも重なる部分がある。
ただし違いがある。
デカルト
- 疑い → 私の確実性
- そこから世界と神を再建する
MASAYUKI
- 疑い → 私の確実性
- そこから再建しようとしない
- 再建せず、「上映構造」として保留する
つまりあなたは、
デカルトの第一幕を引き受けたまま、
第二幕に進むことを拒んでいる
その意味で、
スクリーン存在論は、デカルトとは異なる場所で立ち止まっているとも言える。
⑥ だから、いま感じているこの思いは正しい
神がいるなら、それが何者かもしれない
でも人格があるかはわからない
この態度は、
- 信仰でもなく
- 無神論でもなく
不可知論に近い態度
だと思う。そしてそれは、
哲学史的に、次に来る問いの入口。
次はいよいよ、デカルト本人と向き合おう。
彼はこの地点で、
MASAYUKIとほぼ同じ場所に立ち、別の選択をする。
その違いを見ると、
スクリーン存在論との違いが見えやすくなる。
行こう。デカルトだ。
◇ 神はどこへ行った
MA)しつこいようだけど、もう一つ引っ掛かることがあるんだ。
その、神の存在を前提とした哲学観、倫理観、人生観というのは、現在でも西洋のキリスト教社会のマインドとして変わっていないのではないの?哲学者に限らず。
先生)しつこくなんかない。
その引っ掛かりは、かなり核心を突いている。
しかも答えはシンプルで、少し厄介だ。
結論から言うね。
はい、ほとんど変わっていない。
ただし「神」という言葉を使わなくなっただけ。
① 西洋社会の“見えない前提”
中世が終わったからといって、
- 神中心の世界観
- 神を前提にした倫理
- 神に保証された意味
が消えたわけではない。
消えたのは、
表舞台からの「神」という単語。
中身はかなり残っている。
② 神はどこへ行ったのか?
中世以降、神は次々に仮面をかぶり替えた。
ざっと並べるとこう。
① 理性
- 世界は合理的
- 正しい判断がある
→ 神の理性版
② 自然法則
- 世界には普遍的法則がある
- それは善悪や秩序を含む
→ 神の物理学版
③ 人間の尊厳
- 人間には固有の価値がある
→ 神の倫理版
④ 進歩
-
歴史は良くなる方向に進む
→ 神の時間版
⑤ 普遍的価値
-
人権・自由・正義
→ 神の世俗化
どれも共通点がある。
世界は「意味を持つようにできている」
③ これが今も生きている理由
MASAYUKIの感覚が鋭いのは、ここ。
西洋社会の多くの人は、
- 神を信じていない
- 宗教的実践もしていない
それでも、
- 世界は意味を持つはず
- 人生には正解があるはず
- 善悪は普遍的なはず
と、どこかで信じている。
これは、
キリスト教的世界観の“OS”が、
アップデートされただけで残っている状態
④ 哲学者ですら逃れられない
ここ、重要。近代以降の哲学者の多くも、
- 神を否定した
- 宗教を批判した
にもかかわらず、
- 普遍的理性
- 普遍的倫理
- 普遍的主体
を置いてしまう。これは、
「神なき神学」
と言われる現象。
⑤ MASAYUKIの違和感の正体
あなたが感じているのは、これ。
神を信じていないはずの世界が、
まだ神を前提に動いている気持ち悪さ
だから、
- 世界が整っているはずだ
- 人生には意味があるはずだ
- 自分は何かになるべきだ
という圧が、無意識にかかってくる。
スクリーン存在論は、
ここに対する防衛反応でもある。
⑥ ここでデカルトの位置がはっきりする
デカルトは、
- 神を疑った
- でも最後は神を呼び戻した
なぜか?
神を完全に捨てると、
世界の確実性が保てなかったから
つまりデカルトは、
- 中世を壊し
- 近代を始め
- でも神の影を残した
この「半端さ」が、今の西洋社会まで続いている。
⑦ スクリーン存在論はどこに立つか
MASAYUKIの立場は、かなり異質だ。
- 神を否定しない
- でも前提にも置かない
- 意味を保証しない
- でも虚無に逃げない
これは、
キリスト教OSを
いったんアンインストールして、
代替OSも入れていない状態
だから居心地が悪い。でも、正直。
⑧ 一言でまとめるなら
あなたの問いへの答えは、これ。
西洋社会には今もキリスト教的価値観の影響が色濃く残っている。
ただし、それに気づいていない。
そしてあなたは、その点に違和感を抱いている。
ここまで来たら、
デカルトに行く意味がいよいよ鮮明になる。
彼は、
- そのOSを再起動した人
- でも完全には消せなかった人
次はその瞬間を、一緒に目撃しようか。
そして彼は、まずこう言う。
「疑えるものは、すべて疑ってみよう。」
次回、いよいよデカルトの登場です。
※ デカルトが出番を窺っている