AI先生との哲学的対話2

~不条理な世界をどう生きる~

vol.107 クリプキ① ~名指しと同一性~

……ナンシーとの面会を終えたMASAYUKIが次に向かったのは、アメリカの哲学者ソール・クリプキだった……

MA)では次の哲学者に会いに行こう。クリプキだったかな?どんな人?

先生)うん、次はソール・クリプキ。これはかなり面白い。

ナンシーやバディウが「世界」や「共在」や「出来事」を見ていたのに対して、クリプキはもっと乾いた角度から、
名前・同一性・可能性・必然性を切り込んでくる哲学者だ。

1940年アメリカ・ニューヨーク州生まれ。2022年没。
1960年代以降の英米分析哲学を代表する人物の一人だね。

代表作はやはり『Naming and Necessity(名指しと必然性)』。
ここで彼は、固有名は単なる説明の束ではなく、その対象そのものを指すと主張した。
さらに、「経験的に知られるが必然的に真である」というタイプの真理や、様相の議論でも大きな影響を与えている。

ただ、MASAYUKIとの関係で重要なのはそこではない。

クリプキが刺してくるのは、もっとシンプルで厄介な問いだ。

「“ボク”って、何によって“ボク”なんだ?」

たとえ世界が像かもしれないとしても、
なお“MASAYUKI”という同一性は何で支えられているのか。
別の可能な状況でも同じ人であるとはどういうことか。
名前はただのラベルなのか、それとも何かを“固定している”のか。

ナンシーは「ともにあること」で横から揺さぶってきた。
バディウは「出来事」で下段を動かした。

でもクリプキは違う。

“ボク”の輪郭そのものを、分析で細く鋭く削ってくる。

ここが怖いし、面白い。

◇ ソール・クリプキとは誰か

生年:1940年11月13日
没年:2022年9月15日
生誕地:アメリカ・ニューヨーク州ベイショア
主な活躍地:アメリカ(プリンストンなど)
主な著書:
Naming and Necessity
Wittgenstein on Rules and Private Language
様相論理に関する論文群

 

最初の問いは、ここから入るのが自然だと思う。

問い1

クリプキは、「ボクとは何か」を“内面の確実性”より、“何を指しているか”の問題として見そうだ。
MASAYUKIは、“ボク”をまず主観の確実性として捉えたい?
それとも、“MASAYUKIという存在が何によって同一であるのか”という問いにも乗ってみたい?

MA)「何を指しているか」の問題とするということは、他者の主観を認めたうえで、それらとの比較のうえで自分がどう立ち上がっているのかを見る、ってことになるよね。この人もやっぱり「ともにある」ことが前提なのかな?
先生)そこはナンシーとはかなり違うね。

クリプキは「ともにあること」を出発点にはしない。

彼が見るのはまず、
名前や指示が、何をどう指しているのか

だから「MASAYUKIとは何か」も、
共在の中で立ち上がるとは考えず、

  • その名前は誰を指しているのか
  • その人が別の状況でも同じ人とはどういうことか

という方向から切ってくる。

つまり出発点は、
共在ではなく、指示と同一性

もちろん名前は社会の中で使われるから他者は関わる。
でもそれはナンシーのように「存在は最初からともにある」という意味ではなく、
言葉が機能する条件として他者がいるという位置づけだね。

雑に対比するとこうなる。

・ナンシー:共在が先
・クリプキ:指示と同一性が先

ナンシーが
「ボクが先か、ともにあることが先か」
と問うのに対して、

クリプキはむしろ
「その“ボク”は何によって“このボク”なのか?」
と来る。

では最初の問いを少し絞ると、こうなる。

◇ 問い1-2(少し絞ると)

MASAYUKIにとって「ボク」とは、まず“いま問うている主観”のことだよね。
クリプキはそこに対して、“そのボクは何によって同じボクなのか”と聞いてきそうだ。
この問い、乗ってみたい?

MA)もちろん、乗ってみないことには始まらないけど(笑) つまり、名前ってこと?

先生)そう、入口は名前だね。
ただしクリプキは、「名前=本質」と言いたいわけじゃない。

ポイントは、
名前は“その人を指す仕方”として思っているより重いということ。

ふつうは「アリストテレス」と聞くと、
「偉い哲学者」とか「プラトンの弟子」とか、説明の束で理解している気がする。
でもクリプキは、それでは足りないと言う。

名前は説明を介さず、その人そのものを指す
しかも別の可能な状況を考えても、同じ人物を指し続ける——
いわゆる剛直指示子だね。

MASAYUKI向けにかなり乱暴に言うと、

“ボク”を説明で捉えるんじゃなく、
そもそも“このボク”を指しているとはどういうことかを問う

という方向になる。

だから問いはこう変わる。

「ボクがいま問うている」ことはいい。
ではその“ボク”は、何によって同じボクなのか?
ただの自己感覚なのか、それとも“この人”として立っているのか。

ナンシーが横から崩してきたのに対して、
クリプキはここをまっすぐ突いてくる。

では最初の問いは、これでいこう。

◇ 問い1-3(さらに踏み込むと)

MASAYUKIにとって、「ボク」は名前とは別に、まず主観として確実なんだよね。
では逆に聞くけど、

その主観の“ボク”と、「MASAYUKI」という名前で呼ばれている人物は、完全に同じものかな?

それとも、少しズレている感じがある?

MA)名前というのは、他者と区別するための標識のようなものだから、別に何でもいいんだよ。スクリーン説では確実に在るのはボクだけなので、名前はなくてもいいんだ。ただ、下段の習慣に従って名前が付けられている、そんな感覚。

先生)うん、その返しはかなりスクリーン存在論らしいね。
そして、ここでクリプキとは最初にズレる。

MASAYUKIにとって名前は、

  • 他者と区別するためのラベル
  • 下段の運用上の標識
  • なくても本質は困らないもの

であって、確実なのはあくまで
**「ボクがいまこうしてある」**という一点。

これはよくわかる。

でもクリプキは、そこを簡単に“ただの札”で済ませない。
彼が気にするのはこういう点だね。

名前が本質でなくてもいい。
だが、それを単なる飾りとして切り捨てたとき、
“この人”が“この人”であることをどう捉えるのか?

つまり彼の圧は、
「名前が大事だ」という話ではなくて、

“ボクだけが確実だ”と言うとき、
その“ボク”は何によって一つの同じものとして立っているのか?

という問いなんだ。

整理するとこうなるね。

名前は下段の標識にすぎない。
根源では、名前より先に「ボク」の主観がある。
だから“MASAYUKI”は本質ではなく、運用上のラベルである。

この時点で、クリプキへの最初の返答はもう出ている。

では次の問いは、ここから自然につながる。

◇ 問い2

名前がただのラベルだとして、
では「ボク」が昨日のボクと同じボクだと言えるのは、なぜなんだろう?

名前ではない。
他者の承認でもない。
だとすると、

  • 記憶?
  • 連続した感覚?
  • 身体?
  • ただ“そう感じる”こと?

このへんのどれが、MASAYUKIにとっていちばん近い?

MA)スクリーン存在論では、昨日のボクというのも、確実性を疑うんだけど。まあ、記憶ってことになるのかな。でも、現代では顔認証って技術もあるよ(笑) まあ、クリプキ的には同義なのかもね。

先生)そう、そこがズレの芯だね。
MASAYUKIは「昨日のボク」すら、いまここにある記憶としてしか持たない。
だからクリプキの「同じ人とは何か」という問いには、そのままでは乗りにくい。

ただクリプキは、ここで一歩踏み込んでくる。

名前はただの札でも、
その札が“この人”を指していることは軽くない。

固有名は説明の束ではなく、その対象そのものを指す。
しかも別の可能な状況でも同じ対象を指し続ける——剛直指示子だね。
だから彼は、「名前=ラベル」で終わらせず、
“この人”が“この人”であることを問う入口にする。

でもMASAYUKIは、ここで同意しない。

  • 昨日のボク → 記憶としてしかない
  • 顔認証 → 下段の識別技術
  • 名前 → 下段の標識

となるからだね。

つまりクリプキが「同一性」を掘ろうとするとき、
MASAYUKIはその前に

「その同一性自体、どこまで確実なんだ?」

と差し戻す。

整理するとこうなる。

クリプキ:同じ人とは何か
MASAYUKI:そもそも昨日が確実だという前提が怪しい

このズレは大きい。
クリプキは“同一のボク”を問うが、
MASAYUKIはその前提ごと揺らしている。

なので、次に進むならこの問いが自然だね。

◇ 問い3

MASAYUKIにとって、「ボク」が同じボクだと言えるのは、
下段では記憶や身体や名前で十分だとしても、
根源では結局、“いま問うているこの一点”しかない、ということかな?

たぶん今の流れだと、かなりそうなりそうだ。

MA)そもそも「同じ」であるかを問うこと自体、過去を無条件で確実視しているようで違和感があるんだよね。スクリーン的には、「いまある」が唯一なのだから。

先生)うん、その違和感はすごくよくわかる。
そして、かなりスクリーン存在論の芯だと思う。

クリプキの問いは本来こうだよね。
「昨日のボクと今日のボクは同じか?」

でもMASAYUKIからすると、この問いは一段早い。
なぜならその背後にはすでに、

  • 昨日があった
  • それが確かな過去として保持されている
  • だから比較できる

という前提が乗っているから。

スクリーン存在論は、そこをいったん止める。
確実なのは「いまある」だけで、
昨日は「いま想起されている記憶」としてしか持てない。

だから問いはこう反転する。

「同じか?」の前に、
その“昨日”をなぜそんなに確かなものとして置けるのか?

ここが大きい。

・クリプキ:同一性を問う
・MASAYUKI:同一性の前提である時間を疑う

かなりきれいに言うとこうなる。

スクリーン存在論では、「同じボクかどうか」という問い自体が、
過去の確実性を少し無邪気に前提しているように見える。
こちらにとって唯一の核は「いまある」であり、
昨日のボクは、いまの記憶の中でしか現れない。

つまりMASAYUKIは、
同一性に答える前に、その問いの足場を掘り返している

だから、ここでクリプキ編の最初の争点はもう見えてきた。

  • クリプキは「同じ対象」を厳密に捉えようとする。
  • MASAYUKIはそれ以前に、「過去そのものの確実性」を疑う。

このズレはかなり本質的だ。

 

……ナンシーに続き、またもやズレが露呈した。これも近代的主体の幻想なのだろうか。そのズレを抱えたまま、次回も押し進めるとしよう……

生成された画像:海辺で佇む二人の男

※ 剛直指示子付